2024年04月

2024年04月27日

生徒の安楽寺さんのホームページは前業者から引き継いだものでしたが、突然のサーバー縮小と独自ドメイン名解除の通知が届き、10日間でサーバードメイン移転とホームページリニューアルを終えました。
安楽寺ホームページリニューアル

後に大阪城となった石山本願寺は、縄文時代には三方を海に囲まれ難攻不落の拠点です。 ここは天下を統一する上で重要な場所で、「本願寺」対「信長」の10年以上にわたる激しい戦いが行われましたが、和睦に応じた父顕如は秀吉の支援により西本願寺、徹底抗戦した長男教如(きょうにょ)は家康の支援を受け東本願寺となります。 丸い背景の柄は、東本願寺を創立した教如上人の袈裟の藤柄をモチーフに、背景は共に田植えをしながらお百姓さんに布教したとされる、親鸞聖人の福田をイメージしてデザインしました。

教如上人

真宗大谷派(東本願寺)の公式サイトから引用


oneclickpc1 at 10:29コメント(0)生徒さんホームページ安楽寺永代供養墓 

2024年04月16日

2024年4月15日に東別院(真宗大谷派 名古屋別院)で安楽寺若院(住職のご長男で副住職)による法話が行われ撮影に伺いました!

名古屋別院は、かつて織田信長の父信秀が築城した古渡城(ふるわたりじょう)で、信長自身が元服した場所として有名です。

わずか14年で廃城となった後は、東本願寺の寺となりますが、両者は10年にわたる石山本願寺の戦いで因縁のある相手でもあります。
今ではお堀の名残として、お堀があった場所に下茶屋公園の池が見られるだけです。
織田信長といえば短気で暴力的、猜疑心が強く人を信じない人物として描かれていますが、これは歴史小説家の描いたイメージで、その方がドラマになると思ったからでしょう。
実際の信長は思慮深く、公平な判断ができ、人望の厚い人物であったようで、信長公記では部下に暴力を振るうパワハラシーンは出てきません。
また、桶狭間の戦いで、恩賞の沓掛城(くつかけじょう)は、今川義元の首を討ち取った毛利新介ではなく、その位置情報を正確に報告した簗田政綱(やなだ まさつな)に贈られています。
もし、疑い深い人間ならば、自らが出陣する戦に無名の武将や農民の情報に命を預けることはなかったはずです。

名古屋別院は、名古屋地下鉄名城線4番出口を出て直ぐにあります。
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左が本堂です。
安楽寺法話-7

今回の法話は右の対面所で行われました。
安楽寺法話-6

安楽寺法話-2

安楽寺法話-5

聞法する客席の撮影はNGであったため、残念ながら塗り潰しでご容赦ください。
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oneclickpc1 at 11:49コメント(0)デジタルカメラ安楽寺永代供養墓 
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